貞照寺

川上貞奴女史の歩み

川上貞奴女史
川上貞奴女史(旧名 小山貞)は明治4年7月18日、東京 日本橋で生まれました。幼い頃から日本舞踊に親しみ、7歳には舞台に上がり、大いなる人気を博しました。芸の研鑽を重ね人気絶大だった時、オッペケペー節で一世を風靡していた書生芝居の川上音二郎と出会い結婚。
川上一座として、アメリカ、ヨーロッパに渡って公演を行い、エキゾチックな日本舞踊を披露するなどして、ジャポニズム風潮にあった当時の欧米諸国に大ブームを引き起こしました。人々からは親しみを込めて『マダム貞奴』と呼ばれ、帰国後は西洋の演劇を日本に広める看板女優としても成功を収めました。
大入袋 貞奴千社札

左:正劇川上貞奴一派による大正時代の大入袋
右:貞奴千社札

貞奴女史が女優として活躍していた当時は男性が女性役を演じることが慣例となっていましたが、彼女は日本初の女優となり、演劇の隆盛に尽くしました。また、後進の女優育成のために帝国女優養成所を設立して森律子らを育てました。夫・音二郎が早逝すると、貞奴女史は7年の追善興行の後、女優業を引退します。

貞奴引退興行記念プロマイド

貞奴引退興行記念プロマイド

その後は、旧知の間柄であった福澤桃介が手掛けていた木曽川の電源開発事業を支えました。
水力発電事業を進めるためには、当時珍しかった電気を使う生活を広く普及させることが必要であり、電気をふんだんに使用する「二葉御殿」と呼ばれた大邸宅(現在の「文化のみち二葉館」)を名古屋市内に構えました。和洋折衷の豪華な邸宅は政財界人や文化人らが集うサロンとなりました。
貞奴女史は不動明王の御加護を多くの人々に受けてほしいと願い、貞照寺を建立しました。
貞奴女史は生涯を通じて不動明王を篤く信仰し、度重なる災難から助けられました。養母の病が治癒したこと、難工事であった大井ダムが無事完成したことなどが、貞照寺本堂回廊の堂羽目に表現されています。(その下絵は貞奴縁起館に収蔵されています)また、貞照寺参拝のための別邸として、萬松園を門前に建築しました。
貞奴女史はこの木曽川河畔の景勝地と、自らが信仰する不動明王との間に深い関わりを感じ、貞照寺を建立しました。そして今日も、貞照寺内の霊廟からこの地を見守り続けていることでしょう。
霊廟
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